余談ですが・・・父の影響でアタシは子供の頃から絵を描いていたそうです。
小学生の頃のアタシは「よく描けたで賞」などの賞状や賞品を沢山戴いていました。
家族はそんなアタシを天才少女!と禿しく思い込み、すぐに絵画教室へ通わせました。
絵画教室の大人たちのイーゼルの横で、アタシも同じようにイーゼルを立てて油絵を描いていたものです。
アタシは絵画教室の他に、英語、ピアノなどの教室にも通っていました。
姉2人は華道や茶道のほかに日舞・琴・長唄・三味線などのお稽古事をしていました。
新しもの好きの父の意向でアタシはピアノを習いました。
でもいつもピアノ教室から抜け出して家の裏にあるお寺の縁の下で遊んだり、
墓地の古い墓石を倒して中を覗く探検遊びが大好きでした。
今思えば考古学のほうが似合っていたように思います。
ピアノの先生があの頃のことを・・
本当にヤンチャ坊主だったね・・先生・・アタシ・・坊主ではありません・・汗。忘れた頃に生まれたアタシを老父は溺愛してくれました。
生まれた当初は丸々と太り、男のお子さんですか?と間違えられるのは常で、可愛い女の子の容貌のないアタシを家族は
”この子の将来は決まった・・"と嘆いたそうです。
この写真は1歳のアタシです。父の油絵を背景に父が撮影したものです。
1番上の姉が毛糸で編んでくれた産着を着ています。
何とか女の子に見えるように大きなレースのリボンまでつけてくれています・・・。
この大口を開けて笑う顔は今も変わっていません。
チャームポイントは笑顔しかない!と幼いながらに現実を認識して成長したと思います。
まぁ一般的に、幼年期のブサイクは成人するにつれて美人になると申します。
アタシのような例外もありますが・・・・あ、はい・・。
ところで、祖母はお茶の先生をしていたのですが、夫が亡くなってから、
3人の子供たちを養うために稼ぎの良い呉服屋さんを創業しました。
アタシが生まれた時はすでに祖母は亡くなっていましたが、
祖母の仕事をそのまま受け継いだ母がいつもデンとお店に座っていたものです。
藍染に屋号が白抜きされた暖簾をくぐるお客様が、アタシを見て、
まぁ〜愛嬌のあるお坊ちゃんですこと。ホホ話がわき道にそれました・・・どこかの公募展に入賞したアタシが新聞に取り上げられたりすると「時の人」と勘違いした親や姉たちは、電車で2時間の日展系の先生のアトリエに通わせました。
毎回、石膏デッサンばかりで、消しゴム用の食パンは帰路の電車の中でムシャムシャ食べてアトリエでパンを使いきったことにしていました。
本当のところ、アタシはあまり絵を描くことは好きではなかったんです・・・。
子供の頃のこのようなアカデミックな教育がどれくらい生かせているのか疑問に感じていましたが、現在のアタシの絵画への思い入れと在り方は当時の経験が布石となり、決して無駄ではなかったと自負しています。
自由な発想と自由な製作など、そしてそれに伴う美術活動ですべての疑問が払拭されました。今は、学ばせてくれた家族に感謝しています。